お供馬資料館 ※お知らせ:現在改装中です、展示品を募集しています。皆様のお手元に昔の資料・関連するもの御座いましたら寄贈頂ければ幸甚に存じます。
お供馬行事は、従来、馬を飼っていた氏子の信仰に基づく奉仕として祭礼の中に組み込まれていたものである。戦前には100頭以上の馬が町内で飼育され、祭にはそれぞれが参加していたが以後農家の機械化に伴い、その数は急激に減少していった。昭和59年各家庭に保存していたお供馬用の道具散在、紛失を防ぐため、当時それぞれの家庭で保存されていた道具を供出願い、お供馬資料館を建て保存、陳列している
今は、馬具類の製作者もなく、補修、修理などにも頭を抱えている。
お供馬資料館入り口に陳列されている
わら細工のお供馬は
初代会長 成松氏により作られた。
お供馬用の鞍は
真鋳で鞍を覆い、家紋、縁起模様などを打ち出している。
尻ガイ、尻駄負などには、鯨の骨、ひげなどが利用され、今は手に入らない貴重な品である。
ちなみに、お供馬用品とは。
顔部 オモガイ・鼻革・面向
頭部 小鈴・面房
首部 首網・飾手綱
腹部 腹帯・腹当
背部 シタビラ・鞍・蒲団
臀部 シリガイ・駄負・管
面向・面房・駄負は金銀糸で刺繍を施し、腹帯・駄負には家紋をつけている。
飾手綱は染め分けや五色などの絹布を使用し、友禅模様の蒲団を用いている。
絵馬
旧拝殿には天井がなく、絵馬は梁や棟などにたくさん掲げられていましたが、天井新築工事のため、新拝殿には掲げられる数が制限されてしまい、年代不明、傷みの激しいものなど多くが倉庫の中に保管されています。
その中で、現在の拝殿に掲げられている絵馬から中から、抜粋してみました
『武将図」 森 樵眠 筆
加茂神社の拝殿にある絵馬「武将図」は、画家森樵眠が、脂の乗った30歳の時に描いた作品です。
樵眠は、寛政6年(1794)、今の松山市三津浜で生まれ、明治5年(1872)78歳でなくなるまでこの地に住んでいました。署名は、ほとんど中国流(三字)に森樵眠としていました。
この絵馬は、縦220cm・横161cmの大作で、中国の「三国志」に出てくる張飛の勇ましい姿を描いており、ひげもじゃの見るからに強そうな武将が、矛を右手にひっさげ、黒馬にさっそうとまたがっています
画面を見ると、今にも飛び出してきそうな動きと迫力があり、力強い筆遣いが伝わってきます。
県内に数ある作品のうち、松山市平田町の阿沼美神社にある絵馬と並んで、傑作の一つに数えられています。
額縁に、文政7年(1824)正月、城下氏子中掲、願主、富田屋 十之右衛門ほか九名の名前がきざまれています。 城下氏子中掲とは、松山で商売していた菊間出身者が、ふるさとの氏神にお礼と商売繁盛、家内安全を祈願して奉納したものです。
享保年間俳額(2面)
「俳額」とは俳諧額のことです。 俳諧という言葉は、「こっけい、たわむれ」の意味があります。また、そのような文章や和歌を俳諧歌といっています。
室町時代の連歌からしだいに発達した俳諧は、江戸時代に入って、松永貞徳、西山宗因、松尾芭蕉などの指導によりそれぞれの流派が出来ましたが、作風や表現がつぎつぎに変化し、元禄の頃から、いわゆる雑俳と呼んだ作風が生まれ、後の俳句の前身となりました。
当時の俳諧は、言葉の上の遊びやごろ合わせに似たもので、その一部は「冠付け」「物は付け」といって、昭和初期まで続きました。
享保20年(1735)のこの奉納額は松永貞徳の流れをくむ京都の俳人、鈴鹿知石の選による雑俳百句で県下に残っている「俳額」では、一番古いものとされています。
この俳額は、浜村庄屋長野径寿(号 嵐山)と貫石(名、不明)の両名が奉納しました。
俳額には、菊間連中としるした二句があるほか、関東以西24か国にまたがる73人の俳号があります。
参考までに貫石と嵐山の句を紹介します。
神松や 花に障らぬ 常盤松 貫石
清滝の 水筋分かち 風車 嵐山
安政6年 己未(1859) 当城下 炭屋 権太夫 奉納
中国の物語
近所でも評判の悪い欲深いおじいさんが大切にしていた水がめの中に子供が落ち込み、おじいさんは大切な甕をわって子供を助けた話。
詳しい物語の出典は?
ご存知の方は、ご連絡願います。
慶応2年(1866) 願主 ■■屋 栄吉郎 出典不明
当神社最大の絵馬で、縦一間半、横2間ほどの大きな絵馬
当神社最大の絵馬で、縦一間半、横2間ほどの大きな絵馬である。
この絵馬の願主名前の中に俳号(俳額絵馬)で嵐山、風山、清孝、竹上、桃家、角老とあるので、俳額とほぼ同じ頃の年代と考察できる。施主には、三宅性、長野性、田房性、萬屋源八、岩國屋藤衛門、ほか町内に営む屋号、名前が記入されている。
近郊の神社には同じような絵柄の絵馬は見かけるが、筆の強さと、繊細な画風は一級品である。
文政7年甲申(1824)奉納
浜村庄屋 長野半十郎 塩屋 太兵衛 松本屋 柳蔵
小泉屋 吉右エ門 ■■屋 嘉七
拝殿天井にある、干支の彫り物
明治35年奉納、
拝殿天井にあり、干支の彫り物が見事である。菊間出身の大工で、伊予市との関わりがあるようで、県内では伊予市の伊予稲荷神社に同じような作品が存在する。
拝殿新築の折、かなり激しい傷みがあり、奉納者の名前などがほとんど消えていて、不明である。桜井漆器にて大々的に補修修繕。