令和6年の祭礼日は10月19日(土曜日)、20日(日曜日)です。
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令和6年度 例大祭(菊間祭)についてのお知らせ
コロナ前のように行事を執り行う事に決定致しました。
令和6年6月7日 加茂神社々務所
菊間瓦の牛鬼
菊間町では少なくとも200年以上の歴史があり、毎年10月の菊間祭において疫病退散祈願をしながら町内を練り歩く牛鬼を菊間瓦で再現致しました。
数に限りがございますので ご希望の方は社務所へご連絡ください。
54-3132 加茂神社
平成31年に『池原獅子舞保存会』が県無形民俗文化財に指定されました
加茂神社とは
加茂神社は、愛媛県今治市菊間町に鎮座し、菊間駅東1キロの地点で、菊間町の大部分が氏子区域である。
御祭神は
賀茂別雷命カモワケイカヅチノミコト・
賀茂建角見命カモタケツヌミノミコト・
闇淤迦美命クラオカミノミコト・
大山咋命オオヤマクイノミコト
(京都の上賀茂神社、下賀茂神社、貴布祢神社、
松尾大社の御祭神)
四柱を祀り、
境内には菅原道真公スガワラミチザネコウ、及び天穂日命アマノホヒノミコトを祀る天神社がある。
加茂神社の創立は確実な資料がなく不明であるが、(菊萬庄)の地名は奈良、平安時代にはすでに確認さ
れているが、当地が上賀茂神社の社領地になったのは堀川天皇の御代(寛治四年 1090年)当時宮中
武徳殿での競馬を上賀茂神社に移管する三年前のことと考えられている。
上賀茂神社の菊萬庄社領地保護のため勧請奉斎したものと考えられる。
祭りといえば葵祭りを指すほど歴史のある葵祭りは上賀茂神社の大祭で、現代の京都三大祭のさきがけとして
あまりにも有名である。其の前儀として行われる競馬は、欽明天皇朝(540~572)に始まり、堀川天皇朝寛治七年(1093年)に勅願
によって宮中武徳殿での儀式を上賀茂神社に移行して執り行われる事となる。
その際、十番(とつがい)二十頭の馬料として、諸国二十ヵ所の荘園が(社領地)上賀茂神社に奉納された。
其の二十箇所を競馬料と言い、葵祭り競馬の費用をまかなうために選定された荘園(社領地)である。
人馬一体となり馬場を駆け上がるお供馬は必見です!
お供馬とは、加茂神社秋季大祭(菊間祭り)に神社境内にて午前8時より神輿の渡御開始の11時まで、子供の騎手が着飾った馬に乗り込み、境内参道馬場を駆け抜ける走りこみ行事である。 また、その神馬、騎手は神輿渡御に供奉し御旅所へお供し、神事の後解散するのでお供馬と言われている。
騎手の子供たちは、1歳から15歳までで、走りこみ参加は小学3年生頃より中学3年生までで、馬場約300メートルの参道を美しく飾った馬に乗って一気に疾走する景観は、馬を使用する祭事では国内ほかに例がなく、実に勇壮華麗な祭り行事である。
祭礼一週間前、氏子より二十五名の奉仕で参道の柵作りが行われ、この日より騎手の子供たち、口引き(祭礼当日馬の轡を取る大人)は、参篭に入り、毎日海で禊をとり神社に参拝する。
厩舎へは注連縄を張り禊の際に持ち帰った塩水で清める。これが祭礼当日まで続けられる。
昭和四十年に県無形文化財の指定を受ける。
菊間祭りにて披露される神輿
加茂神社祭礼前日早朝、末社八幡神社、厳島神社、砥鹿神社の宮出しが行われ、引き続き各神輿は町内を巡航する。 昔芝居興行をする場合役者はそれぞれの扮装をして宣伝のために町廻をした。これを顔見世といい初日興行もまた顔見世といった。
菊間祭りの顔見世とは巡町が終わった後に、太鼓台、牛鬼、山車などが勢揃いし町内を練り歩き、神輿渡御の祝儀を貰う行事である。その本舞台は加茂神社の境内での神賑供奉に参加することである。
加茂神社祭礼当日早朝、これらの神輿が伊勢音頭の掛け声で暁のしじまを破って渡御してくる。午前十一時に始まる加茂神社の神輿渡御に供奉するためにそれまでは神社拝殿に安置される。引き続き各地区子供神輿が供奉のために集まってくる。
輿丁(かきて)の装束は白装束で、勿論祭事専用のものである。昔の千早をかたどった服装である。午前十一時宮出し、四十一歳厄年輿丁の加茂神社神輿を先頭に参加神輿全てが馬場で練る。約一時間後、ラッパ合図で御旅所まで神幸行列を組み進む。
牛鬼を先頭にして、ダイバ(猿田彦)、獅子、露払い、神旗、毛槍、弓、立傘、鉾、盾、幟、
などの神寳類、本社神輿、各末社神輿、お供馬の順にて神幸行列が開始される。
平成20年度に、厳島神社神輿2体が新調されることになりました。
歴史ある古い神輿の形状をそのまま残して新調されます。祭り当日をお楽しみに。
菊間祭りの獅子舞による三つぎは壮観です
獅子舞は、全国的に分布しますが、近郊の今治市、越智郡各市町村の祭礼を飾るに
相応しい風物詩である。菊間町においても池原地区に伝承され、加茂神社祭礼の神
賑わしとして秋祭りに欠くことのできない行事としてお披露目されてきました。
この勇壮な獅子舞については、約二百年前の文化十三年に、獅子組と牛鬼組が宮出
しのとき争った記録が残っている事から江戸中期にはかなり盛んに行われていたこと
が推測される。
近郊の獅子舞には、構成や振り付けの違いから二つの流派があり、東は旧今治藩を
中心とする鳥生獅子、西は旧松山藩の野間獅子があり、菊間の獅子は野間流に属す
る。 獅子舞の口上(由来説明)の一部に〔推古天皇の御時、ハタノカワツカと言う人はごく
名人なり、獅子は六十一曲に使い分けたなれど・・・・〕とあり、色々な使い方が有った
ようである。 現在は詣で、キツネ、口上、悪魔祓い、以上は場使いであり、継獅子
(二継、三継)、オヤス、帰り獅子は矢倉くずれと言い幕(ユタン)の中にくずれ込む事に
なっている。口上にも有るように獅子舞には天下泰平、五穀豊穣の祈りが込められて
いる。 また、雄獅子、雌獅子二頭の呼吸、台獅子と継獅子の協力、子狐二匹のコン
ビ、太鼓との間合い等一ヶ月前よりの激しい訓練が必要とする芸能である
菊間祭りで迫力のある牛鬼が大暴れ
愛媛県の南予地方、宇和島市を中心とした地域には牛鬼が祭りに多く参加する。
南予地方の分布の東限は、西宇和郡三瓶町であるが、遠く離れた菊間にも現存する。当地方近郊神社にも牛鬼の奉納絵馬が存在し、昔は近郊町村でも祭りには牛鬼が存在していたと考えられる。しかし、いつしか途絶えて現存しているのは菊間だけである。
加茂神社社記に、文化十三年の祭礼に、獅子組と牛鬼組の若衆が喧嘩をして村役人の取調べを受けたとの記事があるだけで、その由緒、沿革については不明である。
当地に残る伝承では、昔疫病が蔓延した時に疫神退散のために始まったもので、ある年牛鬼を出さなかったとき再び疫病が蔓延したので、それからは途絶えることなく祭礼の神賑わいとして行われることとなったと伝えている。
なお、天正年間まで神社と併立していた遍照院の略紙に、菊間において牛馬が悪獣のために次々と殺されることが起こった。ある日祐珍この悪獣に合い、(当郷に瑜伽の境あり、加茂大明神擁護の地なり、今汝何ぞ神徳を恐れず法場を軽んじ猥りに来りて暴悪を成す、速やかに去らずば吾法威を以って之を罸しめん、悪獣師を恐れて・・・云々)の記述がある。
菊間の牛鬼の濫觴に関係するものと思われるものである。
牛鬼は、厳島神社氏子上町区域の人によって運営されていたが、現在では氏子全域に委託されている。それは、竹で胴を作り、布でこれを覆い、その中に入って担ぐのである。
その長さは八米、幅二米余り、首は伸縮自在で長さ四米近くある。練りながら歩くときは首を伸ばしたり縮めたりする。走るときは首を縮めたままである。
宇和島地方の牛鬼は鬼面獣身であるが、菊間の牛鬼は文字通り牛面である。
ご祈祷・お祓いについて(神職が行いますのでご予約お願い申し上げます。)
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